スワミ・プレマナンダとの対話


秘教学習者の学びを見越したこの度の対話は、初めポーランドの精神世界誌“未知の世界”に掲載され、後に国際誌“シェア・インターナショナル”に掲載されたものです。


スワミジへの17の質問

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人間として生まれたことの目的とは何ですか?なぜ私たちはこの地球上に誕生したのですか?

人間の誕生の目的は、自らのリアリティーを見い出すためである。真我は肉体ではない。それは、マインドでも知性でもない。あなたは、このリアリティーを、魂、光、高位我とかその他あなたの好きな名で呼ぶかもしれない。肉体とパーソナリティーはこの世を去るが、しかし、それでもなお、人間は精妙な意味で生き続ける。この精妙な存在が幾世もの転生を取るのである。それは服を着替えるようなもの、別の生のために一つの生を捨て去るようなものだ。

なぜ、そのような繰り返される転生が成立するに至ったのか?人が最初の誕生を取ったとき、このことの必要性を創り出した。もし人が真我を実現していたら、つまり霊的な形姿をとって、無執着で人としての生涯を体験していたら、いかなる困難も経験しなかったろう。しかしながら、自らの存在の霊的状態との接触を人が失ったとき、肉体、マインド、知性を伴った自分の生命こそが真我であると人は信じ込んだ。人はさまざまな過った行いをし、それらの行いは、相応する結果をもち来たらし、その一連の結果の影響がマインドに強く印象付けられた。そのようなメンタルな燃えかすが、真我を促し、これまで為されてきたあらゆる悪い行いを償うべく、次々と転生を取らせるのである。だから、誕生の目的は、まず第一に、あなたが現世および過去世において作り出した負債を清算することにある。第二に、あなたがもうこれ以上転生を取る必要がないよう、汚れない人生を送ることにある。

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たいていの宗教指導者たちは、自分たちの宗教あるいは宗派においてしか、救済あるいは解放を成し遂げることができないと主張します。これについて、あなたの見解はいかがですか?

その宗教だけが救済への鍵を握っていると言う宗教はどれも、その宗教を始めたあるいは普及させた聖者あるいは賢者によってなされた発言を、誤解して受け取った結果なのだ。
主イエス・キリストが、「私( I )は道である」と言ったとしよう。それは、「もしあなたが自らの I (私)を理解したなら、その I (私)があなたを救済へ導くだろう」ということを意味している。それは、イエスと呼ばれた人間にとって個人的なものではなく、すべての人間にとって個人的なものだ。だから、これらの排他性の主張は、霊性の教師たちが霊性をどのように悟ったのかについての発言を間違って受け取った帰依者たちによってなされているのだ。

救済あるいは解放とは、あなたが折々に訪ねる場所ではない。救済あるいは解放とは、洞察の変化だ。あなたが幼い王子であり、ふとしたことから、非常に貧しい人々の中で育っているとしよう。もし私があなたに、あなたは王子であり、貧しい男ではないのだと言うとしたら、あなたはそれを受け入れないだろう。あなたが自らの真我を受け入れない限り、あなたは貧困に打ちひしがれた人々の中で暮らす貧しい若い男であり続けるだろう。あなたが自らの真の出自を悟ったときのみ、あなたは自らの環境の束縛から自由になるだろう。その自由はそれと共に、あなたに救済をもたらす。

すべての宗教はそのようなものだ。それらはあなたに、救済あるいは解放への道を示す。その道はあなた自身が辿らなければならない。あなたは、あなた自身の未来の創造者なのだ。

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あなたは世界に何を提供することができるのですか?どのようにして、あなたは問題を抱える人々や喪失感を持つ人々を助けることができるのですか?

まず第一に、私自身が、他者に対し導きを提供するのに十分適した人間でなければならない。もし私が混乱した人間であるなら、私は他者にさらなる混乱を提供することしかできない。他者を真に助けるためには、あなた自身混乱がない状態でなくてはならない。

インドの生活様式では、生徒は、――世界に対する提供、問題を抱える他の人々を助けること、迷っている人々を救い出すこと――そのすべてのことを学ぶために自分のグルのもとへ行く。自分自身の人生の中で変容を学んでいる間に、人はまた、ごく自然に他者の為になることを提供する。無私の奉仕は、他者に対し、その人々が必要とするものを提供する。同時に、無私の奉仕は、あなたが霊的に発達できるよう、あなたを浄化するのだ。

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あなたの弟子になりたいと思い、あなたの霊的な導きと助言から恩恵を得たいと思う場合、ヒンドゥー教徒になることは必要ですか?

とんでもない!ヒンドゥー教徒およびヒンドゥー教は、インダス川の南に住んでいた人々と彼らの宗教的信仰に対し、ペルシア人と西洋人が付けた名称だ。ヒンドゥー教は一切、創始者も、厳格な教義や教本も、基本的な信仰箇条さえ持たない。それは、そのような宗教的な組織を何一つ持ってはいない。

人は、自らを真理へと導くどの道であれ、自由に信じることができる。もし円の中心が真理であるとしたら、そのとき、その人が固執する信仰が何であろうと、一人一人すべての人間が、円周上に正しく位置しているのだ。半径に基づいて、円の中心から円周上までの距離が測られる。どの国の人であろうと、どのような性質の人であろうと、どのような信仰を持っていようと、すべての人間が、中心に向かって進化しつつあるのだ。この進化の過程には、数多くの転生を要する。その半径は、ある生涯では短いかもしれないが、別の生涯では長いかもしれない。しかしながら、究極的には、その半径は縮まり、その円周とその半径の双方が、中心と一つになるだろう。したがって、ヒンドゥー教に改宗する必要はないのだ。理解があれば十分だ。

生命の永遠の法典、つまりサナタナ・ダルマは、幾万年もの間、幾千もの聖者たちおよび賢者たちの教えを見守ってきた。もしあなたが、一人の聖者あるいは賢者によって言われたことを理解し、あなたの生活様式を彼もしくは彼女の教えに合わせて形作りたいと思うなら、あなたは大いに歓迎される。そうするために、あなたはヒンドゥー教徒になる必要はない。

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ヒンドゥー教とはどのようなものですか?西洋の人々は、ヒンドゥー教には一つの神ではなく、数多くの神々がいると考えます。ヒンドゥー教徒は、ヒンドゥー教は一神教であり、神は一つであると主張します。これについて説明していただけますか?

先の私の答えの中で、私は、ヒンドゥー教とはどのようなものであるのかについて、いくつかのアイディアを示した。さらに説明しよう。ヒンドゥー教は何万年もの間存在してきた。人類はもまた、この地球上に何万年もの間存在してきた。例えば、レムリアと呼ばれる大陸が存在した。レムリア大陸は、現在のインド洋を飲み込み、現在の西オーストラリアから南アフリカにまで及んでいた。その文明全体は今、海に沈んでいる。もしあなたがインドの中央部へ行くなら、そこが、有史以前には水中にあったにちがいない大量の岩々から成っているのを見ることができる。あなたたちが慣れ親しんでいる歴史は、せいぜい約5千年間ほどだ。いわゆる石器時代以前に、数多くの文明が存在していた。ヒンドゥーのプラーナス(太古の歴史)は、そのような数多くの時代と文明に言及している。ヒンドゥー教はまた、数多くの賢者および聖者たちに言及している。そのような聖者および賢者たちの哲学を扱っている伝承や文書を貫く黄金の糸が存在する。それは、いつの世にも常に存在する、すべての物に生命を吹き込み、そして生命を取り去っている力、つまり神だ。これが、(ヒンドゥー教の)その基となる真理だ。

では、なぜそれほど数多くの神々や女神たちがいるのかとあなたは尋ねるかもしれない。神は一つだが、しかし、一者なる神の働きは、宇宙の有りとしあらゆることに及び、多彩だ。先ほど私が働きの観点から述べた神の顕れをあなたが見るとき、それぞれのデーヴァには、名と形姿と属性が付けられている。例えば、検察官には、その下に、複数の副検察官、警視、監察官、そして直轄の警察官らがおり、彼らはすべてさまざまな職務を行う。同様に、一なる神の多彩な働きがなされるとき、ヒンドゥー教徒は、それぞれの機能上の存在に、名および形姿と属性を与えているのだ。しかしながら、有りとしあらゆる機能上の存在は、その一なる神の顕れであるというのが、ヒンドゥー教の基本的な信条なのだ。ヴェーダはその一者をパラブラフマンと呼んでおり、シヴァイト(主シヴァを礼拝する人々)は一者をシヴァムと呼び、ヴァイシュナヴィト(ヴィシュヌを礼拝する人々)は一者をヴィシュヌと呼び、女神を礼拝する者たちは一者をアディ・パラシャクティと呼ぶ。そのように、神は一つだが、しかし、聖者および賢者たちは、その神に対し数多くの名をつけている。神が行なう有りとしあらゆる働きもまた、それと同じ数だけ名を持っているのだ。


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菜食主義は、霊的な発達において助けになりますか?

マインドと肉体は、環境によって条件付けられる。穏やかな環境は、あなたのマインドを落ち着かせ、あなたの肉体をリラックスさせる。そのように、各種の食べ物も、その食べ物に付随する影響をあなたの肉体とマインドに及ぼす。あなたがつる植物から豆を一つ摘み取るとき、そのつる植物は、そのような行為が行なわれることを許す。事実、それは、あなたや他の人々が摘み取れるよう、さらにいっそう多くの豆の実を結ぶ。あなたは、その植物を傷つけてはいない。しかし、あなたが命を奪うなら、それが動物であろうと鳥であろうと爬虫類であろうと、あなたはこれらの生き物を実際傷つけているのだ。この痛みが環境を汚す。あなたがそのような非菜食の食べ物を食べるとき、あなたはその動物の諸性質を吸収する。あなたはそれらを食べるとき、時として、あなたが食用のため動物たちが屠殺されるのを見るとき、あなたの内的な存在は罪の意識を感じ始め、その結果苦しむ。あなたが霊的な発達に関心を持つとき、このようなことすべては、否定的な事実となる。また、霊的な発達における重要なステップの一つは、あなたの内的な存在がそれ自体を、その肉体やマインドや知性と同一視する執着から、離脱させることなのである。もしあなたが常にただ自分の好きなものを食べるなら、あなたはこの絶え間ない同一視を’止める‘のが難しいことに気づくだろうし、この絶え間ない同一視を’手放す’のが難しいことに気づくだろう。

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スワミ、おそらく私たちは皆、死を恐れていますが、しかし、本当のところ死後、私たちの魂に何が起こるのですか?私たちはどこへ行くのですか?

ひとたび魂あるいは高位我が採った肉体が死ぬあるいは滅ぶと、魂あるいは高位我はその本来の(遍在の)次元〈時間と空間を離脱した本源〉に戻る。しかしながら、それはそこに永遠に留まることはできない。魂が何の願望も再び生まれたいという意向も一切持たなくなるまで、魂の持つ願望や熱誠に従って、魂は、別の転生を取る必要がある。真の聖者および賢者たちは、他者を助けるために、人類への彼らの愛ゆえに、苦しみの転生を取るかもしれない。彼らはカルマのせいでなく、彼らのハートの寛大さゆえに転生するのだ。

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私たちが救いつまり解放を得たとき、何が起こるのですか?

救いあるいは解放は、洞察の変化であり、その変化があなたに真理についての認識をもたらす。人が夢を見ない深い眠りの中にあるとき、何が起こっているのか?あなたは、自分の自己についての認識について何らの想念も持っていないが、しかし、あなたはこの上なくリラックスしている。何が起こるのかを知る必要は、深い眠りの中にあるあなたに影響を及ぼさない。霊的な向上への鍵は、「私が救いを得たとき、何が起こるのだろうか」等々を知ろうと求めるのは誰なのかを、あなたが自分自身に問うことだ。あなたは、それが誰なのか、質問している者は誰なのかを真剣に見い出そうと努めなくてはならない。

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あなたは、あなたに対し偽りの申し立てを捏造し、あなたの投獄を引き起こした人々に対し憎しみを感じますか?

人間が行なうどの行為も、その一つ一つは、その行為に対応する反作用を持つ。その結果を知らなくても火の中に手を入れれば、指は火傷するだろう。したがって、もし誰かがあなたに対して冤罪を捏造するなら、故意であろうとなかろうと、彼らの行為それ自体が彼らの生涯あるいは彼らの子供たちの生涯にさえ、因果をもたらすだろう。では一体なぜ、私が憎しみを感じるのだろう?彼らは、彼らのすべての行為に報いを受けなければならないのだから、私は、彼らを不憫に思う。

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あなたは、あなたの帰依者たちにどのような霊的な実践を勧めますか?

帰依者たちはすべて同じレベルにあるのではない。どの人にも同じ実践を勧めることはできない。しかしながら、私は、神の御姿である神像へのアビシェカムという基礎的な実践について述べてきた。アビシェカムつまり一定の品々を用いて神の御姿を洗い清めるプロセスは、自己浄化のプロセスを開始させる。そのような浄化は、霊性において進歩するために私たちにとって必要である。もしあなたが「これらのことは自分向きでない」と言うなら、そのとき、あなたは自分自身にこう問うべきだ、「なぜだめなのか?」と。もしあなたが、非常に優越感を抱いていてその結果そのような礼拝を見下しているなら、そのとき、あなたのエゴは増長している。あなたのエゴを減じることは、ぜひとも欠かせないことであり、そこで、帰依者たちが謙虚さを学ぶために、私はアビシェカムをするよう指示してきたのだ。

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あなたがこの世を離れ、マハサマーディに入るとき、帰依者たちはどうなるでしょう?

私は、彼らが私を捨て去るまで彼らとともに居続けるだろう。滅びるのは、肉体だけである。

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もし彼もしくは彼女があなたの指示と助言を実践し、あなたによって与えられた実践を行うなら、あなたは、神とあなたに信を持つ人を解放へ導くのですか?

それが私の使命だ。私は必ず導くだろう。

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キリスト教、その他の宗教や霊性の道に対して、どのような姿勢をお持ちですか?

私は、真理は一つであると信じるが、しかし、道は数多くある。グループがどのような名前を持つことを好もうと、霊性において、あなたたちはすべて道の途上にある。私にはあなたを、私の宗教に改宗させる必要性などまったくない。しかし、もしあなたが私に尋ねるなら、私はあなたに、私の宗教について説明し、もしあなたがあなたの宗教について説明するなら、私はあなたに耳を傾けるだろう。しかしながら、私は、あなたが提供する何らかの物質的あるいは霊的な恩恵のために、あなたの宗教に加わりたいと思うことは間違いなくないだろう。私は、ヒンドゥー教徒がキリスト教徒やイスラム教徒になるのではなく、キリスト教徒はより良いキリスト教徒に、イスラム教徒はより良いイスラム教徒に、ヒンドゥー教徒はより良いヒンドゥー教徒になるのが好ましいと思っている。

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私たちは、妻あるいは夫や子供たちとともに家族生活を送りながら、解放を達成することはできますか?

間違いなく、イエスだ。しかし、あなたの愛する人々への愛着と彼らに対する責任を負う必要性により、あなたは、世俗の生活の方に引っ張られるだろう。もしあなたが家族生活を送り、それにもかかわらず、あなたの家族に対する態度において超然としているなら、霊的な発達は起こるだろう。ラーマの妻シーターの父、ジャナカ王は、あらゆる華やかな物を持つ王宮生活の中にあったが、それにもかかわらず、彼は解放された魂だった。

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これから二、三年以内に起こるという大規模な自然災害について話す人々が数多くいます。私たちは恐れるべきでしょうか?それは、本当に起こるのでしょうか?

あなたたちは、自然を非常に大規模に傷つけてきた。あなたたちは、自分たちの個人的な利益を獲得するために自然をたいそう傷つけてきた。母なる地球は、非常に忍耐強く寛大な惑星だが、彼女にも限界がある。最近の災害は、自然の反作用の実例だ。数多くの災害が続いて起こる。あなたたちは恐れることによって、それを変えることはできない。何が起こることになっているのだろうか?もしあなたが水門を開くなら、その領域が水でいっぱいになるまで、水は必ず流れていく。母なる地球は今怒りに満ちている。あなたたちは、彼女の子供たちを滅ぼしてきた。数多くの種が、人間の身勝手さのために絶滅している。

恐れる代わりに、来た道を引き返そうと努めなさい。あなたたちがしてきた数々の間違いを正しなさい。環境を浄化しなさい。貧困にある人々を助けることは、母なる地球を鎮めるもう一つの方法だ。

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私たちの国(ポーランド)へのあなたのメッセージは、どのようなものですか?私たちの国の未来はどのようなものですか?

あなたの国は、地球のその他の国と分離したものではない。あなたたちは、母なる地球の一部だ。あなたたちの未来は、引き返し得ないほど身動きとれないぐらいに世界のその他の国々と結びついている。私には、非常に初期の頃からあなたの国に帰依者がいる。私の祝福は彼らとともに、そしてあなたたちすべてとともにある。

すべての人への私のメッセージは、同じだ。この世界は、今や非常に狭くなっている。この世界のいかなる部分で行なわれるいかなる行為も、その他の部分に対して同様に影響を及ぼす。そのように、人間の地域集団はさらにいっそう相互依存的かつ互いに関連し合ったものになりつつあるのだ。国籍、肌の色、言語、カースト、性別、信条、これらは人間を窮屈な区分に閉じ込めているものだが、これらは、人々に対するその支配力を徐々に失いつつある。しかしながら、(経済至上主義に根ざした)新しい生き方が、世界中に急速に広がりつつあるが、それは利己的に方向付けられている。一方では、人間は足かせを断ち切りつつ、他方では自分自身の周りに壁を築きつつある。あなたができるどのような方法であれ他者を助けることにより、すべて母なる地球の子供たちなのだという考えが徐々にあなたたちに植え付けられるだろう。だから私は、誰もが全体としての人類への助けとなる、ということを願うのだ。人類の兄弟姉妹への奉仕は、母を幸福にするだろう。

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あなたが自分たちの過去と未来を知っているという事実を数多くの人々が体験してきました。それはどのようにして可能なのですか?

過去、現在、未来は、時間の一断面だ。長さ、広さ、高さが次元〈相対世界尺度〉であるように、時間もまた、次元〈相対世界尺度〉なのだ。時間の中での展開さえ、時間の中であなたがどこに立っているかに応じて、過去、現在、未来を持っている。時間は相対的なものだ。それは、固定したものではない。もしあなたが、時間の限界を飛び越えることができたら、過去、現在、未来は、いかなる障壁もなく、あなたの前に展開するだろう。もしあなたが試してみるなら、あなたでもその才能を得ることができるだろう。第一に、あなたはあなた自身を、あなたの肉体、マインド、知性と別個のものとして、知り自覚しなければならない。もしあなたがそういった物に縛られているなら、あなたは時間の支配下にあり、その結果、過去、現在、未来という時間尺度によって制約される。